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2009年8月12日 (水)

「第百六十五話」

 今日も1日が平凡に始まり、平凡に1日が過ぎ、そして1日は、平凡に終わろうとしていた。そんな平凡感をたっぷりと味わった俺は、仕事が一段落したので、書斎からダイニングキッチンに移動し、換気扇の下にあるバーチェアに座り、換気扇のスイッチを押すと、シガーケースから煙草を1本取り出した。やけに換気扇のフィルターの埃が気になったが、それは次に仕事が一段落した時にでもどうにかしようと、手にした煙草に火をつけた。そして、目をつぶり、ゆっくりと優しく、女子を抱えてベッドへ運ぶように、煙を肺へ運び込んだ。しばらくのまどろみを楽しむと、今度は肺から煙を、ゆっくりと優しく、助手席で寝ている女子を起こさないように、ゆっくりと優しく、車を運転して家へと送り返すように、煙を吐き出した。それと同時にゆっくりと目を開けた俺は、換気扇の流れに吸い込まれて行く煙草の煙とは逆の流れで、ゆっくりと目線を動かしていた。
「18・・・19・・・20・・・」
慎重に数を数えながら
「31・・・32・・・33・・・」
ゆっくりとバーチェアを回転させながら
「49・・・50・・・51・・・」
その数が一致したとこで、現状は何一つ変わる事がないが
「64・・・65・・・66・・・」
とにかく俺は、煙草の灰が床に落っこちないように、ゆっくりとバーチェアを回転させながら、慎重に数を数えた。
「・・・76・・・77。」
77。それは、俺の全身を取り囲むようにして空中に静止してる果物ナイフの数。

第百六十五話
「VS 死(ナイフ篇)」

「ゴォォォォォ!」
フィルターの埃を掃除しなかった俺の絶体絶命の姿を見て、まるで嘲笑ってるかのように、勢いよく回り続けてる換気扇。そう、回り続けてる。だから、理解出来た。換気扇の轟音の中で、微かに俺の鼓膜を刺激する時計の秒針が回り続けてる音。無意識の中で少しだけ、リアルから離れ掛けた俺の心を、グイッとリアルへと、引き戻してくれる音。そう、時は、確実に動いてる。確実に止まっては、いない。
「・・・・・・・・・。」
単純な事だが、もっとも重要な事だ。この世界で今、止まっているのは、目の前の果物ナイフだけだ。
「っつ!」
俺は、目の前の果物ナイフに触れてみた。左手の中指から流れ出る血と素早い痛みの伝達事項から理解した。そう、これも重要な事だ。確実に夢じゃないリアル。そしてもう一つ理解出来たのは、空中に浮かぶ果物ナイフは、まるで空中に固定されてるかのように、微動だにしないって事だ。それはまるで、朝、目覚めたその時から、ランチにボンゴレビアンコを食べると決めた俺の決意のようにだ。そしてそれは、俺自身も身動きが取れないって事になる。
「フゥゥゥゥゥ。」
煙草を一服すると言う日常があり、今にも俺をメッタ刺しにしようと空中に静止してる果物ナイフによる非日常。これがもし、死神が仕掛けた脱出不可能な死のゲームだとしたら、注文したパスタがなかなか出て来ないレストランよりも、タチが悪い。
「・・・・・・・・・。」
果物ナイフを空中に固定してる力が何なのかも、何がきっかけで動き出すのかも分からない。ただ、確実な事は、果物ナイフが動き出した瞬間、俺は死ぬって事だ。
「フゥゥゥゥゥ。」
死は、誰にでも平等に訪れる。ただ、いつ、どこで、どんな状況で、が分からないから人間は死を恐怖する。ならどうだ?意味不明だが、果物ナイフに刺されて死ぬ、そんな自分の死のタイミングが理解出来てるだけ、俺は幸せなのかもしれない。この考えを諦めだと言われてしまえばそれまでだが、確実な死がこうして具現化して目の前に現れてしまった以上、もはや諦めるどうこうって話じゃない。ただ、悪趣味な死神が無い知恵を搾って作り出した恐怖のアトラクションなら、それはとんだ誤算だ。死と直面してもなお、こうして俺が冷静でいれるのは、なぜか?答えは簡単だ。俺が、死ってモノを、別に遠い未来の話だとは、考えていないからだ。明日には、いや、数秒後には、自分が死ぬかもしれない。生きてる事が、それだけで奇跡だって日々を生きてるからだ。
「・・・・・・・・・。」
ここで77本の果物ナイフに取り囲まれたって、俺は恐怖も不条理さも微塵も感じない。ただ純粋に、必然的な死を受け入れるだけだ。このゲームの主催者が、死神だとして、神だとして、この死への恐怖に怯える人間の姿をワインの味を堪能しながら傍観して楽しもうとしてるのなら、どうやらプレイヤーを間違えたようだ。
「フゥゥゥゥゥ。」
俺は、短くなった煙草を灰皿で揉み消すと、死を待った。全く百済ない茶番劇の終焉を、ただただ待った。いつ動き出すかも知れない果物ナイフを見ながら、死を待った。
「・・・・・・ん?」
そして俺は、それに気付いた。
「なるほどな。」
この脱出不可能な死のゲームについて、誤算をしてたのが自分の方だったんだと気付いた。
「やられたよ。」
空中に浮かぶ77本の果物ナイフは、静止なんてしてなかった。気が付かなければ気が付かないぐらいのゆっくりな速度で、出会ったばかりの男女がまだ、互いの恋心に気が付かない無意識な速度で、果物ナイフは、確実に俺へ近付いて来てる。

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