« 「第二百六十八話」 | トップページ | 「第二百七十話」 »

2011年8月10日 (水)

「第二百六十九話」

 何の変哲もない一軒家の何の変哲もない食卓。何の変哲もない二人用のテーブルの上には、何の変哲もない二人前の夕飯が並ぶ。旬の魚を一匹丸ごと焼いたメインディッシュを前に、男女が向かい合って座る。依然としてここは、何の変哲もない。
「いただきます。」
「いただきます。」
否っ!
「なぁ?」
じじぃ、九十歳。
「はい?」
ばばぁ、九十歳。一歩離れた位置から見ればそこには確かに、変哲は存在した。結婚生活七十と二年。七十と二年の二人暮らし。子供に恵まれなかった訳でも、あえて子供を作らなかった訳でもない。ただただ、時が流れ、気付けば七十と二年の二人暮らし。あまりにも運命だった。
「・・・・・・・・・。」
「何ですか?」
寂しいと言われれば寂しい二人暮らし。何か後悔があったのでは?と考えれば切りがない二人暮らし。笑ったり、泣いたり、怒ったりの七十と二年の二人暮らし。平々凡々と言われれば平々凡々な二人暮らし。それを、誰に言われるまでもなく一番理解している七十と二年の二人暮らし。
「・・・・・・いや、明日にしよう。」
「言い掛けたのなら言って下さいよ。明日言うなら、今言っても同じじゃありませんか。」
じじぃ、九十歳。ばばぁ、九十歳。無意識に意識する残された生存日数。明日が来るのか?終わりはいつなのか?それを考えたら老若男女問わず、確率は同じはずなのに、無意識に意識する残された可動日数。じじぃ、九十歳とばばぁ、九十歳の七十と二年の二人暮らし。
「あのな?」
「はい。」
いつ訪れるか分からない死の衝撃。その気持ちを落ち着かせようと口に運んだその一口大の食べなれたサイズの御飯が、じじぃの人生の幕を下ろすかもしれない。言葉を待つ、ばばぁの心臓が、いたずらな気まぐれで鼓動を止めてしまうかもしれない。無情にも大地が揺れ動き、この町に同時に平等な死をもたらすかもしれない。もしかしたら、三十年後の百と二年になる二人暮らしの今日の日もまた、じじぃは、ばばぁに、同じ言葉を伝えているのかもしれない。
「どうだったかな?」
「何がですか?」
「その・・・・・・あれだ。」
「あれって何です?」
解決しても解決しても、塵の如く何処からともなく姿を現す後悔の念。後悔しない事だけを考えながら、それを一つ一つ解決していくにはあまりにも短い人生。ならばすべきは、一つしか残されていない。無数にある後悔の中から解決すべき最優先の後悔を見付け出す荒業。
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
「あなた?」
じじぃ、九十歳。七十と二年の二人暮らしにして辿り着いた境地。それを口に出す勇気を獲た七十と二年の二人暮らし。震える手を、ばばぁに見えないように膝の上に置き、早まる鼓動を落ち着かせる為、初めて意識しながらする呼吸。体感にしてスローモーションに流れてはいるが、確実に一定の速度で刻み流れている時間の中、全ての神経を、声を出す事だけに集中した。
「幸せだったか?」
「・・・・・・・・・いいえ。」
ばばぁ、九十歳。七十と二年の二人暮らしで初めて口にする全否定を告げる意の言葉。返答まで時間にしてわずか二秒。しかし、ばばぁの頭の中では、一秒の流れの間に思い返された七十と二年の二人暮らしの詳細な日々と入り乱れる信じられないぐらいの数の感情。それは実に、あまりにも長過ぎる二秒であった。
「・・・・・・・・・そ、そうか。」
「あなた?幸せだったか?ではなくて、これからもずっと、幸せです。」
そこに確かな愛があった。七十と二年の二人暮らしで、お互いがお互いに同じ養分を与え、すくすくと順調に育ち、同じ高さまで成長を遂げ、真っ直ぐに伸びた茎のその先には、互いに寄り添う花の穂が二本。
「明日からもよろしく頼むな。」
「こちらこそ。お願いします。」
じじぃ、九十歳。ばばぁ、九十歳。その日もいつもの様に、焼き魚を綺麗に食べた。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
じじぃ、九十歳。ばばぁ、九十歳。永眠。それは、七十と二年と一日目の二人暮らしの朝だった。

第二百六十九話
「フタリシズカ」

|

« 「第二百六十八話」 | トップページ | 「第二百七十話」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/121942/41066822

この記事へのトラックバック一覧です: 「第二百六十九話」:

« 「第二百六十八話」 | トップページ | 「第二百七十話」 »