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2013年8月21日 (水)

「第三百七十五話」

 人間なら必ずこんな経験があるだろう。朝、目が覚めた瞬間、今日やろうとしている事が上手くいく、と言う朝。それは他人から見てどうこうと言う話ではなく、自分なりに上手くいく、と言う話。そう、そしてまさに今、私がその状況にいるのだ。今日は、朝、目が覚めた瞬間から、凄く面白い短編小説が書ける気がしてならない。今日の全ての指標が既に、短編小説の完成に向かっていると言っても過言ではない。ストレスレスな目覚めから始まり、便切れの快調さ、天気気温湿度、もしかしたら短編小説だけではなく、何をしても全て上手くいくんじゃなかろうか?と錯覚さえ起こすぐらいの朝。時計を気にしなくてもスムーズに運ぶ支度。家を出ようとする時には、時間の方が慌てて追い掛けて来ているかのように感じられる朝。
「よし!」
そう、私はこれからこのドアを開け、喫茶店へと向かい、そこで面白い短編小説を書くのだ。大丈夫、何の心配もいらない。アイデアなら目覚めた瞬間から溢れ出している。あとは、この順調で快適な今日の流れに乗り、頭の中で組み立てながら喫茶店への道のりを歩くだけだ。
「ガチャ。」
やっぱりだ。やっぱり今日は、いつもと違う今日だ。目の前にあるマンションのエレベーターは、既に私がいる階に止まっている。そして、鍵を鍵穴に差し込む事が、こんなにもスムーズに感じた日はない。今日は、もしかしたら単なる自己満足的な面白い短編小説が書けるのではなく、自他共に認める面白い短編小説が書けてしまうのかもしれない。エレベーターに乗り込んだ私は、込み上げて来る勝利の歓喜を必死で押さえ込む事に必死だった。
「チン!」
エレベーターの扉が開き、エントランスを抜け、一歩外へと足を踏み出してみると、なんて清々しい朝なんだ。こんなにも朝を清々しいと感じるだなんて、ある意味で青天の霹靂だ。あまりにも清々し過ぎて、逆に禍々しく感じる貪欲な自分がいる。
「よし!」
歩き出そう。喫茶店へ向かおう。右左右左右左右左右左右左右、なんて順調で快適なんだ。こんなにも右足と左足がスムーズに言う事を聞くとは!?互いに互いを気を遣いつつも、けっして馴れ合う事はない。互いが互いの働きを尊重し合い、互いを高めている。それが右腕と左腕にも伝わり、これ程までに完璧な歩行へとなるとは!?こんな気分で喫茶店へ辿り着いた時、一体私は、どれ程の面白い短編小説を書いてしまうのだ!?悦楽過ぎて恐怖すら感じてしまう。こんなにも感情が入り乱れる朝が存在していいのだろうか?いいや、いい。いいんだ!だってこの朝が、一体誰にとってマイナスだと言うのだ?これは、誰にとってもプラスなのだ。
「うん!」
書き手も読み手も面白い短編小説。最高ではないか!こんな朝なら毎日大歓迎だ。だがしかし、こんな朝が毎日来ないからこそ、ある意味我々は順調で快適な毎日を過ごせているのかもしれない。毎日、最高傑作が書けてしまったのなら、それはそれで、自殺したくなってしまうのかもしれない。駄作があり傑作があり、私の日常は均衡を維持している。そんな当たり前が当たり前過ぎて、忘れていた事実に気付かせてくれる、朝。いいや、もしかしたら当たり前が当たり前過ぎて、忘れる事すら忘れたままで、一生を終えているのかもしれない。さあ、あとは目の前にそびえる喫茶店へと順調で快適に辿り着くだけだ。それからはもう、今日一番の至福の時間が私を包み込むだけだ。
「ん?」
渡り切った先の喫茶店のその先の時空を見つめ、横断歩道をスムーズに歩きながら私は、マンションからの道のりを遡り、驚嘆に打ち拉しがれた。それは、数横断歩道のどれもに赤信号で悩まされなかったのだ。私は、今日の全てが面白い短編小説が書ける指標だと言う核心を核心した。先走りそうな時空すら追い越しそうな、そんな自分を押さえながら、私は一歩一歩スムーズに階段を登り、喫茶店の扉の前に立ち、ノブを握る武者震いに沸き立つ右手を左手でサポートし、今まで押さえ込んでいたモノを全て解放しながら一気に喫茶店の扉を開けた。
「っざけんなよ!!」

第三百七十五話
「満席」

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