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2016年5月11日 (水)

「第五百十七話」

 私は、健康に気遣い会社からわざわざ遠回りをし、一時間以上掛けて出来るだけ歩いて自宅に帰るようにしている。まあ、健康に気遣いなどと言いながらも単に満員電車に乗って帰りたくないと言う理由もある。電車で帰れば歩いて帰るよりも半分以下の時間で済むのだから、私は余程、満員電車が嫌いなのか、それとも歩くのが好きなのか。ともあれ、歩いているといろいろと頭の中で考えが整理出来るのも事実だ。だからきっと、わざわざ遠回りをしてでも歩くこの時間は、私にとって思っている以上に貴重で重要な時間なのだろう。と、こんな事を頭の中で巡らしている間に、気付くとそろそろいつものバス停だ。それは、ある日たまたま気付いた出来事だった。それ以来、このバス停を通る度に注意していたが、今日もやはりこの時間、このバスから降りて来る乗客は全員笑顔だった。

第五百十七話
「乗客が笑顔で降りて来るバス」

 そして私は、遂に好奇心が抑えらきれずに、あのバスに乗る決意をした。わざわざ電車を乗り継ぎ、時間を逆算し、あのバス停にあの時間に来るこのバスに出発地点から乗り込んだ。私は、車内が見渡せる一番後ろの席に座り、年甲斐もなくなぜだか無性にわくわくしていた。
「発車します。」
9人程の乗客を乗せ、バスは運転手のアナウンスと共に走り出した。いつもと違う街並み、きっと二度と出会う事もないだろう乗客達。しかし、しばらくバスに揺られていると心境に変化が生まれた。もしかしたら、きっと二度と出会う事もないだろう乗客達とまた出会う事になるかもしれない。それは窓の外に、私好みの輸入雑貨店を見付けたからだ。何度もこの街へ足を運ぶかもしれない。そんな発見や乗り降りする乗客達を見ながら、私はある事に気付いた。そう、あのバス停だけかと勝手に思い込んでいたが、どのバス停でも乗客は笑顔で降りて行くと言う事だ。なぜだ?車内は特に普通だ。笑顔になる事などない。私がそうであるように、他の乗客達も車内では笑顔を見せてはいない。むしろ、母親がぐずる赤ん坊を必死にあやしているぐらいだ。それを咳払いで懸念していた私と同じ年齢ぐらいの中年の男もバスを降りる時には笑顔だった。一体どう言う事なのだろう?私もあのバス停でこのバスを降りる時には、笑顔なのだろうか?
「発車します。」
確かに会話を楽しむ女子高生は、笑顔だ。だが、私のように、一人の乗客は、どうやって笑顔になると言うのだ?まさか、全員が笑顔で降りるから、自らも笑顔で降りていると言うのか?それは有り得ない。そんな事は、有り得る訳がない。
「バカな!?」
思わず声が出てしまった。ぐずる赤ん坊を必死にあやしていた母親は、バスを降りる時、無理矢理に赤ん坊の口を手で笑顔にして降りて行った。
「発車します。」
何がどうなっていると言うのだ?そこまでして、全員が笑顔でバスを降りるから自らも笑顔でバスを降りると言うルールに従う意味があるのか?
「次はCOSMIC四丁目、COSMIC四丁目。」
遂に私が降りる番がやって来た。私はボタンを押した。この状況になってもまだ実感がないし、私が笑顔でバスを降りる想像すらつかない。まさか、バスに乗ってこんなにも緊張で心臓がドキドキするとは考えもしなかった。そんな私の心理状態など関係なくバスは減速し、ゆっくりといつものあのバス停に止まり、ドアが開いた。汗が止まらない私は、ゆっくりと立ち上がり、ゆっくりと歩いてドアに向かった。こんな状態で絶対に笑顔でバスを降りるのは不可能だ。
「何っ!?」
ドアの上の広告とドアとの間に、小さな文字でこう書かれていた。「笑顔でバスを降りないと殺す!」と。私は、ゆっくりと運転手の方を振り向いた。運転手の手にするサブマシンガンの赤いレーザーの照準は、私の額へとゆっくりと移動して行った。私は、引きつる笑顔を作り、運転手を見ながらバスを降りた。
「発車します。」
そしてバスは、運転手のアナウンスと共に走り去って行った。

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